ここ半年間、色々と思うことがあって現在進行形でたくさん悩んでるけど解決しません

と思ってたけど、…ナムジュンが答えのないことで悩んで何かを得るのが僕の人生だ、みたいなこと言ってて、あ〜なるほどな〜と思ったんですけど、彼どこの宗教の人ですか?ナム教??

無宗教にしては、 少々文学的というか…スピリチュアルに近い…(宗教信仰しててもべつに偏見はない)

でも本当に、あ〜解決しないこと悩んで、そこで得るものが学びなのかな〜と思って


もしかすると悩むのが好きなのかも知れない


自分は一生懸命考えて、悩んで、苦しんでるつもりだったけどただ答えのないこと悩みたいだけなのかも?

これもまた答えのないこと考えてるんですけど。。

 

自分を傷つける人と一緒にいると、麻痺してくるんじゃないかな。。その痛みがなくなるとき、本当に怖いことが起こると思って。 その自分の周りの痛みを感じられなくなったときも、また本当に怖いんだと思うし 

そういうことに敏感に生きていきたいと思いました。、

 

ミッドサマーみた

 

 

今日、私は半年前から見たくてたまらなかった「ミッドサマー」に、ついに足を運んでしまった。

ただのホラー映画(ヒッチコックとか、もっと言えばアリアスターの前作ヘレディタリーとか)なら、きっと見なかったはず。私含め、カラフルでカワイイヴィジュアルに惹かれた女の子は絶対に多いと思う。

正直に言えば今日まで約1ヶ月間、映画館手前でかなり迷い、「今日はそういう日じゃない…」と何かしら理由をつけて見てこなかった。これまで幾度となくTwitter上の各位から「病んでるなら見るな」と脅しがあったことが私を恐れさせていたからだ。

 

結論から述べると、「ミッドサマー」は精神衛生が健康で、恋愛に興味ない人は見なくてもいいし見ない方がいい。この映画を見た所で高尚な利益は期待できない。(個人的な意見ね。)ただ、死んで欲しいぐらい好きだったひとが1人でもいれば、この映画の見方がかなり違うと思う。

全170分のうち約150分間(詳しい時間は分からないがとにかく長い時間)、映画館に入った自分を激しく後悔していた。できることならこのまま目をつぶって映画が終わっていたらいいのに。今すぐにここから出て行こうかとも。

私のこの映画に対する気持ちが動いたのは、まさに主人公ダニー自身が、コミューンの「家族の一員」を受け入れた辺りから。段々と私自身も悪い薬を飲んでいたのかというぐらい、コミューンに対して安心感を得ていた。そして、大きく動かされたのは、ダニーが付き合っていた彼(ごめん名前忘れた)の浮気(軽く言えば)現場を目撃してしまった後。コミューンの女性達が家族であるダニーに対して激しく共鳴する場面だ。失恋したとき、何よりも癒しとなるのは家族や友人からの優しさだろう。あの激しい悲しみに同じ温度で寄り添ってくれる家族を持ったダニーを羨ましく思った。いや、たしかにあの場面を観た多くの人は訳の分からない気持ち悪さを感じるという予想ぐらいは出来る。私はこの世界に狂信し神格化するつもりもない。どうしても、あのコミューンの善悪を評価する気にはなれないのだ。文化、といえばそれまでだが、それだけで気持ち悪がったり何も疑わなかったりすることのホラーを身をもって感じたからだろう。あの全てを間違っていると判断するのは、間違っている。それまで怖いと感じていた全ての現象が、私にとって肯定的に捉えられ始めた。

「ミッドサマー」がホラー映画だとジャンル分けするならば、最もホラーである部分は、その時の私にとってホラーではなく、限りなく快感に近かったと言ってもおかしくない。これまでの全ての気持ち悪さを解消できる瞬間だった。焼けゆく奇妙な小屋に、かつての私の最悪な恋愛を重ねながら。

 

「ミッドサマー」

私は、SNSでの脅しをすっかりと忘れアクション映画を観た後のような爽快さを胸に口角を上げて映画館を出た。かと言って、誰にだって見るのはおすすめしないし、私も過去の恋愛を綺麗に燃やせたので、もう2度と見たくない。

映画好きな人と話すときは、もっと深いこと考えてる人の考察を読んで、それをそのまま真似しようと思う。

 

 

 

 

 

 

 

なんで、自分の見える範囲しか
見ようとしないで
自分の考えられる範囲でしか
物事を捉えられないか

分からないことを全部
疑ってないと不安なのか

知らなかったことを
他人のせいにするのか

確信のない他人の言葉を
本当にして信じられるのに
うそのない本人の言葉を
確信を持って信じられないのか

負の感情はどこに行くのか


ツイッターもインスタも知らなかった時代が
あるなんて信じられない
きっと無くても生きていけるけど
あったほうが便利なものばかりで
本当は何が必要で、何を信頼していいか
分からなくなるのは当然だと思う

私のツイッターのアカウントは
なぜか何千人のフォロワーがいて
私がそこで独り言を言えば、
見知らぬ人にいいねをもらったり
見知らぬ人に批判されていたりする

ツイッターにいる私のことを、私の家族も身近な友人も私だとは思わない。
インターネットで始まった関係であるから、
インターネットでアクションして
インターネットで終わるのが必然的だから。
現にいま、私はインターネットでこのことを
言っているし。


じゃあ彼らは

彼らはインターネットに住む架空の人物ではなくて
名前も、顔も、話すことも、気持ちも、
彼らはインターネットに住んでいない本当の私と同じ



彼らを批判する人は、人ではない
インターネットに住む
名前も顔も話すことも心も全部どこにも無い


じゃあ、この関係はどうやって展開するか
展開はしない
批判は一方向に彼らの心を傷めるだけ。
リアルだけが損をするのがバーチャルリアリティ


負の感情は優しくて傷つきやすい人のもとへいく